富をつくる能力 富を生かす能力
キリスト教の理想は清貧ではなく、
"富に生きず富を生かす"という生き方である。
アブラハムは非常に富んでいた。(創元社『聖書物語』より) キリスト教は、金銭に富むことを悪とするものでしょうか。ある人々は、
「キリスト教では、清貧が理想とされ、富むことは悪とされている」
と思っているようです。しかし、そうではありません。キリスト教においては、富むこと自体は必ずしも悪とはされず、一方、清貧も、必ずしも理想とはされないのです。
富は悪ではない清貧も理想ではない
キリストの使徒パウロは、こう言っています。
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも貧しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリ四・一二)。
パウロは、経済的な「貧しさの中にいる道」も「豊かさの中にいる道」も知っていると語りました。彼は、清貧が良く、富は悪だとは語りません。富との"つき合い方"次第で、富は良くも悪くもなることを、彼はよく知っていたのです。
キリスト教は決して、富自体を悪いものとは考えません。聖書は、
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」(一テモ六・一〇)
と言っています。悪いのは「金銭を愛すること」――すなわち金銭へのフィリアの愛、金銭に執着することであって、金銭そのものではありません。富は、もしその生かし方さえよく心得ていれば、良いものなのです。
キリスト教はまた、貧乏であることを決して理想としません。
旧約聖書を見ると、私たちの信仰の父アブラハムや、イサク、ヤコブは、非常に富んでいました。義人ヨブも、まれにみる大富豪でした。
信仰深いヨセフを宰相としたエジプトは、非常に富んでいました。知恵に満ちたソロモン王が治めていたときのイスラエルは、世界一富んだ国でした。
ヨセフが宰相だったときのエジプトは、非常に富んでいた。
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